■ここは、主に副島隆彦の弟子から成る「ぼやき漫才・研究会」のメンバーが小論を掲示し、それに師や他のメンバーが講評を加えていくところです。

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ぼやきのセミナー



(2000/08)

nativism VS behaviorism (partII) 投稿者:崎谷博征
1.nativism VS behaviorism
absolutism VS relativismと置き換える事ができるかも知れません。これを人間の脳で喩えると
脳幹、視床下部 VS 大脳皮質
に置き換えられると考えられます。理由を以下に挙げます。
脳幹とは、生命中枢そのものであり、そこに論理の入る余地はありません。そして、根源的な直感力というものの首座がここにあるものと考えられています。(この右側に首座があるという根拠で右脳教育といわれるが、これは必ずしも大脳半球の右脳を指している訳ではない。)丁度、生物でいうと蛇などの爬虫類はこの脳幹だけで大脳はありませんが、実に生命力が強い(蛇の様な執念とはよく本質を突いている。戸塚ヨットスクールなどはこの脳幹を鍛える教育であった。)我々大脳が発達した人類(中にはペットにする変わり種がいますが)が、蛇などの爬虫類を生理的に気味悪く感じるのは、このなにか根源的なものを先見的に感じるせいかも知れません。つまり、
脳幹、視床下部=先天的、生来的=直感的、主観的=absolutism
これに対し、大脳を発達させてきた人類は物事を抽象化したり、相対化できる能力を獲得しました。特に欧米社会で、物事を分析するサイエンスを発達させることができました。しかし、その副作用として不安、恐怖などの妄想や相対主義に根ざす無規律(アノミー)なども産み出してきました。つまり、
大脳皮質=後天的=分析的、客観的=relativism
以上が論拠です。
後の議論のためにもかなり、以上に敢えて単純化してみました。
2.この二項対立の概念について
この様な二項対立、二分法により、西洋の学問は発展を遂げてきたのでしょう。
しかし、この二項対立、二分法自体が西洋近代社会の弊害かも知れません。私達の主観における共通性とその持続性を客観(マルクスの疎外)と呼ぶなら、主観と客観のあいだの二分法は(概念的にクリアーカットであるが)過てるものではないでしょうか。いかなる観念も人間個人の脳で紡がれていることに喚起すれば、どんな観念も主観といえます。これは存在と意識、能力と役割の関係についてもどちらか一方が他方を決定するという様な単純な関係ではないことにも現れています。nativism VS behaviorismについてもその傾きとして
保守(持てる者。これは必ずしも財産、地位、責任、歴史といった顕在しているものを指す訳でなく、人間の奥深くに沈殿する潜在性<これは遺伝子まで遡れるかも知れない>を持つ者という意味で)=nativism
それに抵抗する者=behaviorism となっているのではないでしょうか。なかなかまとまりがつきません。
崎谷博征 拝
2000/08/28(Mon) No.01

日中問題は日米問題だ! 投稿者:荒木章文
「日中問題は日米問題である。」

と喝破したのは小室直樹である。
現在その問題の兆候が見えはじめている。
そのことに気づいて対策を考えなければならない。
何故なら、また日本民族は同じ過ちを犯す可能性が高いからである。
 ヘクシャー・オローン・サムエルソンの定理を持ち出すまでもなく、経済的合理性から考えると、労働コストの安いところで生産が行われるのは当然のことである。
しかし、現在世界はボーダーレスの経済と言われて久しいが、副島隆彦が言うように現在でも自由貿易体制というのは幻想に過ぎない。
 これもまた副島隆彦が言うようにやはり「政治と経済は、貸借をとってバランスする。」のである。
 次にSPAと呼ばれる、商品の企画から小売までを行う業態の記事である。


《日本貿易振興会(ジェトロ)が、今月15日に発表した今年上半期(1月〜6月)の日本と中国の貿易額は、輸出入を合わせて387億5956万ドルと前年比30%増を記録。過去最高となった。
 不況化で以外な気もするが、要因は何なのだろうか。ジェトロに聞いてみると、「アパレル業、中でもユニクロや無印良品などSPAの勝ち組による影響が大きいのではないでしょうか」と分析。
 こんなところにもユニクロの躍進振りが如実に表れた格好だ。
 当のユニクロでは、
 「そんな意識はまったくなかったです。」と驚いた様子。
 SPAとは商品の企画から小売までを行う業態のこと。ユニクロや無印良品は、これまでの概念を取り払い、中国の工場に生産を委託、コストを大幅に削減して“安くて良い”商品生産を可能にした。
 これがブランドモノ主流であったファッション意識から、安くても良質のモノを自分流に着こなす、という現在の波に見事にマッチ。それが結果的には日中の貿易高を増加させたというワケだ。》
「週刊宝島 No.470 2000・9・6 宝島社 P.29」

 結局、パソコンの世界で行われて成功しているITの事例とも言える。
 DELLコンピュータや、ゲートウェイがおこなっていたことをその他の業態においても行った例と考えることができる。
 「市場の情報→企業のアクション」
 今までは、この間に数多くの流通形態が存在し、その流通形態が存在するが故に
1.情報収集のスピードが遅れる
2.多くの流通形態を通過する間にさまざまなバイアスがかかる
3.当然流通コストもかかる。
これらの問題が存在した。
 それに対する解答がITであったわけである。
 そしてこれから、当然経済合理性から考えるとこの、動きはとまらないであろう。
 しかし、日本民族は小室直樹が指摘した。
「日中問題は日米問題である。」
 という警告を意識することなく、55年前と同じ過ちを行う可能性が高い。
 何故なら、小室直樹がいうように日本民族は結局「歴史から学ぶ」ことをしない民族だからである。
 そして副島隆彦が指摘したように、
「いまだ世界に、自由貿易体制なんか存在しない。」
「政治と経済は貸借して、バランスする。」
このことによって、「地域覇権国=中国」と「世界覇権国=アメリカ」に翻弄され続けるのであろう。

2000/08/27(Sun) No.01

nativism VS behaviorism 投稿者:崎谷 博征
脳外科医として(というか一医師)としてこの観点は非常に重要な意味を持ちますので以下に私見を述べます。日本を含め世界では、御存知のように医学とは西洋医学のことを指します。これは、西洋の科学万能主義の派生です。古代ギリシャ時代、医師たちは“医神”アスクレピオスの庇護のもとで、健康の維持にはなんらかの外部からの介入が必要と頑信し、その任務を“病気”の治療としていました。一方、自然回帰派(健康とはものごとの自然な秩序のことであり、自然の法則に調和した生き方からこそ健康が得られる)はアスクレピオスの娘ヒュギエイアに仕え、人に“健全な身体に宿る健全な精神”を保証してくれる自然の法則
を発見し、それを人々に教えることを医学の重要な機能とみなしていました。
前者のアスクレピオス派がニュートンの機械論、デカルトの二元論という科学概念に連なり、現在の要素還元主義(全体の特性は全体を構成する各要素の作用に還元できるとする信念)が西洋の科学と医学に至ったのだと解釈しています。(数学での集合論もこの流れでしょう。)<したがって、これからの議論を展開する上で、デカルトがnativism学派の創始者とすると少し齟齬が生じてきますが。> 
このアスクレピオス派がモanti-sthモという概念を医学に植え付け、我々が日常使用する武器の開発に至りますが、御承知の様に、多様な抗生物質使用がさらなる耐性菌を発生せしめるという端的な例にも観られます様に、いわゆる医原病が大きな問題になっています。実際、私が日常外来、入院患者の治療にあたり、どこまでがこの医原病か判断がつかなくなっています。(作用の異なる薬剤を複数服用していれば、新たの起こる事態は予測不可能です)
一方のヒュギエイア派とは古代ではヒーラーと呼ばれていましたが(アマゾンの原住民やアボリジニの中には連綿と存在している)、医学界では片隅に追いやられ、中国医学、アーユルヴエーダ医学を代表としてしぶとく残ってきました。しかし、アーユルヴエーダ発祥のインドでさえも、アーユルヴエーダ医学は西洋医学の下に位置づけられています。(現地のアーユルヴエーダ医学医に聞いたところ、日本でいうと一般の医者と鍼灸師ぐらいの差があるらしい。要するに医学部に入ることができず、やむを得ずアーユルヴエーダ医になるらしい。麻原もこの類。)このヒュギエイア派の戦略とは端的に申し上げると“病気に対する抵抗力をたかめる方法”つまり、“病気”でなく“健康を観る”ということです。
簡単にまとめると以下のようになります。

アスクレピオス派(西洋医学)
生物医学の唯物思想、要素還元主義、形態の重視
ヒュギエイア派(東洋医学)
natural law,ホリステイック(部分の集合は全体に等しくない。)、機能の重視

実は西洋医学の覇権国アメリカで、アスクレピオス派の治療の限界を認知し始め、医療費という純経済学的観念からもprevention(癌の治療でいうとchemoprevention<化学予防>、実は私はこのテーマで学位を取りました)に力を入れ始め、この方面の研究にかなりのグラントが下りています。NIHにも代替医学局が設置されていますが、今後このヒュギエイア派の思想を取り入れ大幅に改局されていくでしょう。(この先駆者がアリゾナ大学医学部教授アンドリューワイル博士であり、皮肉な事にこの様な動きも元来ヒュギエイア派であるはずの東洋人ではなく西洋人からである。)


このホリステイックな考え方は例えば、経済は政治やその国の歴史と不可分であるという事と、そしてpaleo-Keynesianのような政策がさしあたりアスクレピオス派の還元主義に対比されるのでしょうか。これを宗教まで引き伸ばすと

behaviorism=アスクレピオス派(西洋医学)=world values=globalism=causality
=idealism
VS
nativism=ヒュギエイア派(東洋医学)=nationalistic
value=nationalism=predestination=nominalism

となるのでしょうか。(間違いがあれば訂正してください。)

副島先生が著書のなかでも展開、卓見されていた通り、医者のできる事は究極的には“できもの”を外科的に除去すること以外にはないという事を学生時代に強く思ったいましたのでこの道を選びました。したがって私は、精神科や老人内科さらに皮膚科まで本当にその存在の意義があるのか疑っています。(外科を捨ててホリステイック医学を志そうとしましたが、家族を養うために現在は据え置いています。)ところで、“ぼやき”に登場したローレンツの社会生物学は、リチャ−ドド−キンズに連なっていると考えているのですが、彼の利己的遺伝子論は論理の枠組みはnativismのものでしょうが、どこか還元主義的要素が強いと感じました。(ここら辺の矛盾点はまで詰め切れていません。)
以上、頭の中を整理するためにも勉強になりました。議論をさらに発展させるべく意見ください。  崎谷博征 拝

2000/08/25(Fri) No.01

佐藤俊樹 著 『不平等社会日本』を読む。 投稿者:府川
府川です。
 中公新書より6月末に、『不平等社会日本』が発刊されました。著者は佐藤俊樹という昭和38年生まれの社会学者(東大総合文化研究科助教授)です。この著書は一部では話題になっております。
社会調査の分析をもとにして、日本人の階層意識の変化を論じたものです。知識エリートの階級化が現在、非常に強くなっているという論旨を展開しています。これは日本の知識層に十分インパクトを与えるものなのでしょうがその是非は別にして、私はこの著作から、日本の現時点の社会学者の水準の低さを痛感しました。そのことを副島グループの皆さんなら理解してもらえると思い、書きます。
 私がこの本について何か語れる資格があるとすれば、かつて*******という企業で、リサーチで飯を食っていた経験があるということです。ちなみに小室直樹先生がこの会社で講演をしました。
社会学や政治学のような科学的に低級な学問分野をいかに向上させるかという課題の克服から、統計論の意義を述べました。
専門的な事を割愛すれば、要は自然科学では実験と数量化が可能なために進歩したが、それ以外の『科学』分野は経済学、心理(この訳語に反対する副島さんを僕は支持します)学を除いては、遅れているということでした。
 さて本題に戻って、『不平等社会日本』については、その内容に関心のある方には読んでもらうことにして、私はここでは社会調査という視点から、分析の方法論で感じたことを申し上げたいと思います。
まず第一にこの著者は調査分析の専門家ではあるのでしょうが、調査自体については素人なのかもしれない?とさえ錯覚します。なぜなら、分析に使用した調査の手法(電話調査なのか郵送調査なのか訪問調査なのかといったことです)を明記していないからです。
 これは決して些末なことではありません。結果に信頼性を求められる調査はすべて科学的数理論に従っています。もちろん、調査の過程でさまざまなバイアスが生じ、誤差が出てくるので、完全な証明が要求されません。ここが自然科学と較べて、怪しいところなのですが。そして各々の調査手法に応じて、各々のスケールが存在しますから、この記述が書き落とされているのは驚きです。
 調査のプロが中心読者でもなく、専門書でもない『中公新書』に書くのだからという考えで、著者が意図的に割愛した可能性が高い。私がこの著書全般を通じて感じる読みにくさは、著者のこのような曖昧で雑駁で不親切な態度から来ています。
 しかし、私は一方的に著者を批判したいのではありません。こういう著作を許してしまう日本人全般の知的レベルこそが問題なのだと思っています。調査結果を無批判に受け入れてしまう思考習慣や、調査の科学性(非科学性)に対する無理解(というよりも科学とは何かという事に対する根本的な無知)が、読者の側にあります。これは教育の問題になるのでしょう。その羊の読者に向けて、分析の体裁をまとって、自説を展開するために調査結果(事実)を利用するような輩がうようよしているのが、この日本の文系学問の世界なのかもしれない。 
 私が著者に強く求めたいのは、調査の数字の読み方について、読者にきちんと説明してほしいということです。著者が分析に使った調査は大規模なもので、巻末資料で見る限り、良質のものです。金もかかっているでしょう。他の国にも類がないと思います(少なくもアメリカでは危険すぎて不可能です)。これを無駄にしないためにも、また啓蒙のために(この分野は啓蒙が絶対的に必要です。その意味で、この著書は注目に値します)、村上泰亮の80年代における日本の中間層(いわゆる中流)の分析を破る新しい見解の主張で注目を集まることにあまり目を奪われないでほしい。いや無理か。佐藤俊樹はこうして日本の東大教授になるのでしょう。
 とりとめなくなりましたが、日本の学者界も変わらざるをえないと思います。このままではどうしようもない。私のような人間ですら、こんな実感を持ってしまうのですから。
2000/08/23(Wed) No.01

日本にもいたイギリス人家庭教師 投稿者:嶋津 貴彦
 『ハリウッドで政治思想を読む』の読者は、この本のどの部分に刺激を受けただろうか。前作の『アメリカの秘密』も刺激的な作品だったが、今回は更に刺激的である。更に政治的な作品になっていると言った方がいいかもしれない。
 私は、この作品から受けた刺激の一つとして、『アンナと王様』(Anna and the King)の分析を挙げる。タイ王国が、イギリス帝国に属国化されたのと同様に、幕末期に、実は、日本もイギリス帝国に属国化されたのだという分析が重要だ。自分たちだけは、欧米列強と対等に渡り合うことができる優秀な国民だと思い込んでいる土人が、日本人だけではないことを知ることができる点においても意義深い。伊藤博文と井上馨が、親イギリス派の人材として育てられた事実は重たい。明治政府の中心人物が、イギリスの手先なのである。日本史の教科書に登場した幕末維新期の偉人たちが、属国化されていく過程で果たした本当の役割が、『属国・日本論』(五月書房)第3部「属国日本の近代史」の中で鋭く展開されている。帝国に属国化を強要された後進国には、五代友厚、坂本龍馬、大村益次郎、伊藤博文、井上馨、山県有朋といった、日本人にとって特別な思い入れのある偉人たちが果たした役割と同様の役割を演じた人たちが必ずいる。これは特別なことでもなければ、後進国の人たちにとって恥ずべきことでもない。事実を隠すことなく、素直に受け止めればいいのだ。遅れた国が、国際政治の舞台に割り込んでいくには、この過程をたどるほかないだろう。他に割り込む方法などありはしない。四国艦隊下関砲撃事件において、実際には、長州藩とイギリス軍艦は交戦していないという事実(『属国・日本論』P191)にぶち当たったならば、素直に驚き、かつ、その事実を謙虚に受け止め、以後日本の政治を考えていく上での判断材料として役立てればいいのだ。それにしても、他国に自国の敵(攘夷派)を潰させ、自国の手先(親イギリス派)にはしっかりと勝利をもたらす帝国イギリスの懐の深さには感心するばかりだ。

 以下においては、日本も当然のごとく、世界帝国が織り成す覇権争いという世界政治の中に登場する小国の一つであるという事実を一冊の本を中心に紹介する。

 『明治日本見聞録』(講談社学術文庫)という本がある。イギリス人女性エセル・ハワードが、明治34年(1901年)から7年間にわたって、元薩摩藩主島津家の五兄弟(長男忠重、二男富次郎、三男諄之介、四男韶之進、五男陽之助)の家庭教師をつとめたときの回想録である。この本を、当時の日本がイギリス人にとってどんな国に映ったか、当時の日本人の風俗習慣はどのようなものであったかを知ることができる資料であるとするのは、読み方の一つかもしれないし、実際、この本はそのように作られている。
 しかし、この本が持つ本当に重要な部分は、明治の日本(人)がエセル・ハワードなるイギリス人に与えた印象を綴った記述ではない。真に重要なのは、イギリス人家庭教師エセル・ハワードが、『アンナと王様』でジョディ・フォスターが演じるアンナ・レオノーウェンと同じ役割を担っていることである。
 エセル・ハワードによる7年間の家庭教師の成果として、島津の五兄弟は英語を話すことができるようになる。世界言語である英語を話す日本人グループの仲間入りである。このグループの構成員としてこの本に登場する人物の一人が伊藤博文である。エセル・ハワードが三男諄之介、四男韶之進、五男陽之助の三人を連れて朝鮮を旅行し、当時韓国統監であった伊藤博文を子供たちと一緒に訪れる記述があるが、そのとき伊藤は、エセル・ハワードとは勿論のこと、子供たちともほとんど英語で話したという。
 伊藤については次のような記述もある。

 「この先見性のある吉田(松陰)が、自分の弟子を西洋に送り出そうとした努力は徒労に終わったが、後にある英国の船会社の尽力で、若い伊藤と友人の井上(馨)〔後の大蔵大臣として著名な人物〕の二人が英国に渡ることができた。そこで彼らは死に物狂いに勉強したが、それは愛国心に駆り立てられた日本人学生のみが何をなすべきかを知っていたからであろう。」(『明治日本見聞録』 P227)

 帝国から派遣された著者は、意図的に事実をぼかして書いているが、要は、伊藤博文と井上馨をイギリス派として育てるためにイギリスに連れて行ったということなのである。この記述は、『ハリウッドで政治思想を読む』のP145の分析に繋がっていく。
 島津五兄弟については、次のような記述がある。

 「島津公爵とその弟たちは、ドイツと名がつけば何にでも、また誰にでもひどく反感を抱いていたことが、私には大変興味深く思えた。公爵は、ドイツ人はまるで蟻のようによその国土を侵略し、行く先々でなんでも食べ尽くしてしまうと断言した。私がこの比喩の真実性に初めて眼を開かれたのは、この意見のせいであると思う。今や世界じゅうを五回ほど旅行してみて、私はこの比喩がいかに正鵠を射ていたかはっきりわかったのである。彼らはどこにでも群がり、その食い荒らす力は目に見えるだけでなく、悲しいかな、音まで聞こえるような気がした。」(『明治日本見聞録』 P284)

 この記述だけを読むと、島津五兄弟のドイツ(人)嫌いは、エセル・ハワードの影響とは無関係のようだが、彼女が家庭教師として赴任してきたのが明治34年(1901年)であることからすれば、彼女が直接的又は間接的にドイツ人嫌いを島津五兄弟に植え付けていったと考える方が素直であろう。エセル・ハワードは、イギリス派の育成任務を見事果たしたのだ。
 エセル・ハワードは日本人の他に、シャムの国王の甥(『アンナと王様』Anna and the Kingそのもの)やドイツ皇帝ウィルヘルム二世の子供たちの家庭教師もつとめ、後者については、『ポツダムの王子たち』(Potsdam Princes)という本になっている。
 エセル・ハワード以外にも外国人家庭教師が日本を訪れており、エセル・ハワードの人選でリチャードソンという女性が関西の住友家(現在の住友の本家は東京の渋谷区広尾にあるはず。広尾と言えば、吉田茂は大学生の頃、広尾にある自宅から馬に乗って本郷の大学に通ったそうだ)の家庭教師をしている。このような例は、実は、いくつもあるに違いない。

 この本の訳者島津久大は、島津忠済の三男として生まれ、この本に登場する本家五兄弟の長男忠重の長女経子と結婚をする。訳者である久大にとって忠重は義父ということになる。         
 久大は東大法学部卒業後外務省に入省。スペイン、カナダ等の大使を経て退官し、その後、迎賓館長をつとめている。久大が館長をつとめた迎賓館では、定期的に「島津会」なるものが催されていると記憶する。ただし、私は呼ばれない。イギリス派として養成された者が外交官の義父とは余りにもよくできた話ではないか。
 しかし、この種の姻戚関係は、実際には、特に珍しいことではないことを、広瀬隆の『私物国家』(光文社 知恵の森文庫)が教えてくれる。広瀬隆が書いたこの本の姻戚関係図を見ていると、政治家、経済人、官僚といった主要な地位にある人たちは、上手に姻戚関係を作っている。広瀬隆のこの調べ上げる能力は、非常に優れているが、一方で、私見を述べ始めると途端に正義感の強い、お利口さんの意見表明になってしまうのもまた、広瀬隆の特徴の一つである。

 それでは、姻戚関係についてもう一つ。先日亡くなられた皇太后さまは、久邇宮邦彦王と俔子妃の長女として生まれているが、皇太后さまの母俔子妃が旧薩摩藩主島津忠義公爵の七女であることは、皇太后さまが亡くなられた際に新聞で報道さていたのでご存知の方も多いだろう。皇太后さまの母俔子妃と島津忠重公爵は兄妹の関係である。皇太后様の長男である皇太子継宮明仁親王、すなわち現在の天皇陛下の家庭教師はクェーカーのエリザベス・グレイ・バイニング夫人である。エリザベス・グレイ・バイニング夫人については、日本人クェーカー新渡戸稲造の系統の人間が気になる。昭和天皇の「人間宣言」の草案を書いたのは、新渡戸稲造の弟子前田多門である。そして才媛雅子妃のハーバード大学時代の指導教授が、アメリカ経済学三神童の一人ジェフリー・サックスであるという『ハリウッドで政治思想を読む』の記述に再び繋がっていく。
 
 世界史の荒波に飲み込まれれば、日本もこの程度ということだ。日本は特別な国ではないのだ。それでも日本は特別なのだと言い張るのか。戦後の日本に繁栄をもたらした、世界水準からしても優秀な日本の技術者たちは、等身大の日本の姿を知っているだろう。何故なら、彼らは、日本の得意分野とする技術の基礎がどこにあるのかを知っているからだ。基礎(科学)とは何かを知っている謙虚な人たちだ。それに比べて、日本の文科系の馬鹿野郎どもは、いつまで経っても自意識過剰で、夜郎自大の事大主義のままだ。仲間同士で誉めあい、傷を舐め合う、どうしようもない程の馬鹿の集まりだ。この馬鹿たちの戦後の日本の繁栄に対する貢献度は、ほぼゼロだろう。
今こそ日本(人)の真の実力を知るべきときだ。そのためには、山積みされた事実の束をひとつずつひとつずつ、地道に紐解く作業がどうしても必要なのだ。
                         
                         

2000/08/20(Sun) No.01

高級官僚・現役派遣制 投稿者:荒木章文
「省益」と「国益」が衝突した時は、政治家が判断しなければならないことである。
しかし実際には、「省益」しか存在しない。
 それは、以前の石油代替燃料のところでも明確に現れている。
 
それでは何故、「省益」が優先されるのであろうか?
それは小室直樹が指摘しつづけてきた「日本の組織は、ゲマインシャフトに化する」という原則が働くからである。
つまり共同社会になってしまうからである。

 そこではどんな問題が発生するか、まず公務員ということで失業の危機意識などとうていなくなる。
 故に、公務員独特の行動様式をとることになる。
 そこには失業という意味での市場原理が働いていない。

 共同社会だから、“生え抜き”という概念が存在する。
 故に、横からの移動も認識されにくい。
 
 そこで、今の省庁の官僚を全て、一度派遣会社に登録させてそこから高級官僚を各省庁が採用するというのはどうだろう?
 現役の派遣社員でなければ、高級官僚になれないのである。
 どのみち副島隆彦も指摘しているように、国家財政はとてつもない赤字を抱えているのであるから。
 公務員の、レイオフをしなければならないのは市場原理からすれば当然の結果なのである。
 そうしないと、ロシアのように国家事態がデフォルトをするしかないのである。
 それこそ、官僚とともに日本国民は、沈み行くタイタニックの中にいるのである。

 戦後は、武官はなくなったが文官は生き残った。
 と誰かが言っていた。
 戦前は武官の共同体益を優先されて、日本は崩壊し、戦後は文官の共同体益を優先されて崩壊するのである。
 同じ過ちを繰り返すのが日本人なのである。
 何故なら、小室直樹も指摘しているように日本人は歴史から教訓を学ばない民族だからである。

 この「陸軍大臣現役武官制」をもじった「高級官僚・現役派遣制」,

 これによって政治家側にも、サボタージュする官僚に対するオルタネティブができるのである。

以上
A.ARAKI

2000/08/19(Sat) No.01

日本部族民新聞2 投稿者:荒木章文
日本部族の間では、東京では銀座、大阪では北新地ここで夜な夜な酒を飲めることがステイタスである。
 たいして美人な訳でもなく、どうしようもない状況なのにサラリーマン種族は街に消えていく訳である。
 
 それがサラリーマン種族の現実である。
 それはどんな日本の組織に行っても同じである。
 それが、ボスザルを中心とする日本種族の習性なのである。
 ミエをはる若いサルや、その上に座るボスザルそれが現実の日本社会なのである。
 まったく、近代なんてそこには存在しない。
 しかし、それではもうすまないのである。
 仕方がないということで、サル達は若い時に疑問に思っていても結局、その社会構造の中で、うまく立ち回れるサルが評価されてきたのである。
 しかし、もうそれではすまない時代になったのである。
 もういいかげんに、a Modern Man or Woman にならなければならいのである。
 それだけ、経済が肥大化しすぎて、覇権国家としても対日本管理戦略を策定して実行する時代なのである。
 我々の生活実感だけは、日本部族民のそれであっても、もうそれは許されないのである。
 それが現実である。
 完全に市場競争の中で、個人の価値を提示できなければならないのである。
 その個人の価値を社会に評価されるまでに、人間関係を個人の能力で調整しなければ、企業組織は機能的に作動しない。
 そうしないと、村八分にあって能力云々のまえに身動きできない。
 それが、日本社会の現実である。
 故に、転職してすぐにはモノにならないのである。
 しばらくは、徒弟制度のもとボスザルのもとで修行しなければならない。
 しかし、それでも、もういごごちのいいぬるま湯の社会は崩壊しているのである。
 そっから出発しなければならない。
 もう、そういう時代なのである。
以上
A.ARAKI
2000/08/18(Fri) No.01

新・エネルギー政策案 投稿者:荒木章文
前回、ガイアックスなる石油代替燃料のついて書いた。
 別段私は、このガイアエナジー社との関係もないし、利害関係もない。
 しかし、日本の国益を考えた時には非常に有効な戦略商品であることは間違いない。
 サンデープロジェクトの特集の中では、自治省への批判で終わっていた。
 戦後のマスメディアがとってきたスタンスである、反体制のステレオタイプ化した報道であった。
 
 しかし、国益よりも省益を優先するあたりは、旧大日本帝国の陸軍となんら変わっていないのである。
 国益からすれば、満州での戦線拡大はあわない。
 「何故なら、中国問題はアメリカ問題だからである。」
 それにもかかわらず、陸軍の軍益を優先させたのである。
戦後、武官は無くなったが文官は残った。(と誰かが言ってた.)
 それが、官僚の限界である。
 
 これは小室直樹が「危機の構造」以来主張し続けてきたことである。

 さて実際に、この戦略商品をどのように使えば有効なのかシュミレーションしてみることにする。
 アメリカ中西部の、反グローバリスト層の州での州法で、規制をかけるという方法はどうだろう。
 つまりグローバリストがよく使う手法に、数値目標なるものが存在する。
 例えば、フロンガス、二酸化炭素の排出規制。
 または、経済成長率何%目標とか?
 
 このようなパターンで、ガソリン等の内燃機関用燃料の排出ガス規制という形をとるのである。
 環境保護の立場から、このエネルギー政策は受け入れられる可能性がある。
 つまり特定の、商品について保護するという形ではなくて、
「内燃機関用燃料における排出ガスの成分(一酸化炭素)は、現状のガソリンの十分の一以下に今後一年以内に実施されなければならない。」
なんていうものになる。
 これは現状でも技術的に可能なのだから・・・・

 これを日本国内で考えてみよう。
 アメリカが州法ならば、日本ではさしあたり条例になるのだろう。
 東京都条例で、「今後1年以内に内燃機関用燃料から排出される一酸化炭素の排出量は現行ガソリンの十分の一以下にしなければならない。」という主旨の条例になる。
 
 するとこれに違反したものは罰則を受けることになる。
 政治的には、ユーザー側を味方につけるか、企業側を味方につけるかで戦略は変わってくる。
 それは消費税導入の時のことを考えたらいい。
 売上税と消費税、これによって自民党は自分達の政治基盤である中小商店主などの企業側を味方につけた。
 ユーザー側を、味方につけるのであれば条例違反のスタンド等から罰則をとることになる。
 企業側を味方につけるのであれば、ユーザーに罰則を科すことになる。
 それは、つまり飲酒検問やシートベルト検問とねずみ取り、もうひとつ排出ガス規制検問が増えることになる。
 排出ガスから条例の規定値以上、検出されたら即罰金である。
 
 これを消費者の為とか、環境の為とか言って、アメリカに数値目標として示せばいいのである。
 グローバリストの戦略そのままである。

2000/08/16(Wed) No.05

グローバリストの危機管理 投稿者:荒木章文
グローバリストには国家という思考枠組は関係ない。

 彼らが如何に、リスク管理しているのか?
 それについて考えてヒントにする時期がきているのである。

 自分の財産を、分散して所有する。
 「危険の分散=保険」の思想である。
 
 副島隆彦も近著で述べていたように、日本国政府を信用してはいけない。
 故糸川英夫博士も、日本政府を信用してはいけない。
 と述べている。
 何故なら、戦時中発行された国債に関して、日本政府は責任をとらなかったのである。
 
 それでは単純に考えてみよう。
 ペーパー・マネーが信用できないとしたら、人々は何で財産を守ればいいのだろうか?
 希少価値が存在して、壊れない、腐らない、価値が外部からの影響によって減価しない存在とは何か?
 それは、金であり、ダイヤモンドである。
 故に、グローバリストはこれらを押さえているのである。
 
 ハルマゲドン1999年7の月は一年前に過ぎてしまった。
 しかし、その場合の事前準備が、ペーパー・マネーで成立している経済においての準備と同じなのである。
 自分の財産を如何して守るか?

 エネルギー資源をどうするのか?
 これは以前、日本の新国家戦略商品を紹介した時に考えたことである。
 半導体がなくても、日本人の大部分の生存には関係ない。
 極端な話、不便でも昔の生活はそれでなんとかやっていける。
 しかし、エネルギー資源に関しては、都市生活をする日本部族民にとって、蒔を山にとりに行くわけにはいかない。
 だから、グローバリストは石油エネルギーについても押さえているのである。

 ところで、ペーパー・マネーは信用できないからと言って、常に貴金属をもって財産の保全を図っていたら、まともな経済活動はできない。
 そこで、全世界の情報網が必要になってくるのである。
 故に、グローバリストはメディアを押さえているのである。

何故、グローバリストという考え方が有効か?
は以上のような説明がつくからである。

 それでは、「日本国家としての対応策」と「日本人個人の対応策」については今後考えていくことにする。

以上
A.ARAKI

2000/08/16(Wed) No.03

日本部族民新聞 投稿者:荒木章文
日本部族民の自由研究(2000年夏)

 日本部族民の間では、この2000年を迎えた夏、様々な文化が混在して、伝統回帰の方向へむかいつつある。
 日本部族民の間では、伝統的に夏は浴衣(Yukata)と呼ばれる民族衣装を身にまとう。
 ここへきて通称“ヤマンバ(Yamanba)”と呼ばれる種族が登場してきた。
 彼女らは独特の種族の化粧を行っている。
 この種族は、一部東京(Tokyo)で発生して、今は全国に普及している。
 夏と呼ばれる日本の気候の時期には、彼女達は日本の伝統文化である「祭り」や「花火大会」に出没する。
 そして彼女達の、浴衣(Yukata)は、従来型の伝統的浴衣(Yukata)とは異なり、膝上の丈が何cmという極めて短いものになっている。
 また、日本の伝統的サンダルである“ゲタ(Geta)”についても江戸期に発達した、花魁文化の高下駄ほどもある、非常に高さのあるサンダルがはかれている。
 また、日本部族民の頭髪はアメリカ人(Yankee)のそれを模している。
 Yankeeのそれを、日本部族民の間では“チャパツ(Chapatu)”と呼んでいる。

 彼女達以前の日本部族民には、ヤンキー(Yankee)という世代が存在した。
 今も存在しているらしい。
 彼ら・彼女らはやはり“チャパツ(Chapatu)”である。
 また、彼らの中にヤンキーと呼ばれて、車やバイクで暴走行為を行う部族民集団が存在する。
 この暴走行為を行う部族民集団の間には、そのメンバーであることを認識せさせる“特攻服(Tokofuku)”と呼ばれるメンバー間の連帯をはかる制服が存在する。
 そこには、何故か“日の丸”や漢字で書かれた“I Love You”などが明記されていた。
 また日本古代から存在する命(ミコト)信仰の影響と考えられる“命(Inoti)”という表記がしばしばみられる。

 「ディスコは、日本の昔からある“盆踊り”の現代版である。」

 と最初に言ったのは、私の記憶が正しければ飛岡健氏である。
 日本部族民は、アメリカナイズされながらその内側で、伝統回帰している。
 但し、それは従来型のそれとは異なる為に大きな抵抗と違和感を周囲に与えながら・・・
 今現在なら、パラパラという民族舞踏ダンスがそれにあたるのだろう。

 またガングロ・ゴングロ(Ganguro・Gonguro)という種族の化粧法が存在する。
 これはそのままアフロ・アメリカン(Afro-American)を模しているスタイルになる。
 このガングロとゴングロには、比較の関係が存在する。
 ガングロ(Ganguro)<ゴングロ(Gonguro)という関係で、アフロ・アメリカン(Afro-American)に肌の色がより近いのがゴングロ(Gonguro)である。

 このアフロ・アメリカン(Afro-American)に対抗する形で発生してきたのが“ビハク・メイク”と呼ばれる種族の化粧法である。
 この種族の化粧法は、アングロ・アメリカン(Anglo-American)を模したスタイルである。
 ただし、この“ビハク・メイク”に関しては伝統回帰の特徴がみられる。
 日本部族民の古代への回帰である。
 つまり、高松塚古墳の壁画に登場している日本部族民の化粧法である。

このように日本部族民は、様々な文明に影響を受けながら、文化・文明が交錯した中で、敗戦後55年の夏を迎えたのである。

(今回は部族民調査という、スタンスで現在の日本を描いてみました。)

以上
A.ARAKI

2000/08/16(Wed) No.02

Anglo-American and Afro-American Music 投稿者:荒木章文
「日本人に規範は存在しない。」
と最初に言ったのは、小室直樹である。

 つまり、欧米諸国のように唯一絶対神が存在して、彼との上下契約を結ぶ。
 それが規範であり、法律であるのだ。
 これが固定倫理である。
 それに対して、日本部族民の倫理は状況倫理である。
 ベネディクトの「菊と刀」よろしく、恥の文化である。
 周囲との関係性の中で、規範的であるかどうかが変わってくる。
 固定倫理が存在するけれども、規範を守れない。

 それと、

 最初から規範が存在しない。

 のとは天と地ほどの差がある。

 マックス・ヴェーバーの比較宗教社会学の方法論は、社会を冷徹に観察するツ道具(Tool)としては非常に優れている。
 「宗教=行動様式」という観点から、世界を観察していく。
 必ずしも、宗教がすべてとは限らない。
 しかし、人々の行動様式・思想・行動を考えるとき、避けては通れない考え方である。
 故に、その社会で「そこに固定倫理が存在してもそれを守れない。」
という人々が大部分をしめていたとしても、社会を分析するにあたっては非常に有効な方法である。

 さて文章倉庫の中にある「R&Bとゴスペル」を書きはじめたのであるが、それに対してアメリカ在住のおくやま氏より次のような反応を頂いた。

> 僕が見ている限りでは白人音楽(カントリー・ロック・パンク・アルタネティブ)VS 黒人音楽(ゴスペル・R&B・ラップ)
という対立構造が、もう随分長いこと続いているような感じがします。これに最近リッキー・マーチンやサンタナなんかのラテン系が入ってきてバトルロイヤル状態ということでしょうか。

> 90年代に入ってからのニルバーナを始めとするシアトル発のアルタネティブバンドなんかは80年代末の黒人音楽の独走に対する反抗として出てきたような気がして面白かったです。
> こちらの地元ラジオ局にもそういう争いが現れていて、例えば若者に人気のZ95.3FM という黒人ラップ系を中心に流す音楽専門局の他に「アルタネティブ専門」と銘打って最近出てきた104.9FMという音楽専門局はどう考えても白人局中心です。必ず黒人音楽が幅を利かせてくるとそれに対抗する白人側の反応があるんですね。ここ十年ぐらいはそんな感じで白人音楽は劣勢だな、という気はします。
> とまあちょっと思い付くまま書いてしまいましたが・・・。

 私は、現地での生の情報については日本国内での作業になるので入手困難な部分も多いです。
 だから、文献を収集して仮説を提示していくスタイルで作業をすすめるつもりです

 まずはこのおくやま氏が提示して頂いた対立構造から考えていきたい。
白人音楽(カントリー・ロック・パンク・アルタネティブ)VS 黒人音楽(ゴスペル・R&B・ラップ)

以上
A.ARAKI

2000/08/16(Wed) No.01

日本知識人のマスターベーション 投稿者:荒木章文
−日本知識人のマスターベーション−

荒木章文

讃岐地方には、ラーメン屋が無い。
正確に記述すると、未だ地方ラーメンブームは仕掛けられていない。という事である。
日本のどんな田舎に行っても、マクドナルドとコンピニエンスストア、大手家電量販店、大手スーパー、ファミリーレストランは存在する。
フランチャイズ展開された店舗が、画一的に各地方に浸透しているのである。
これが日本の実状なのである。
この盆休み、香川県高松市に遊びに行った。
そこで副島隆彦の言う「私でさえ、アメリカの高校生レベルでしかない。」という発言を実感をともなって理解できたような気がする。
副島隆彦は私が認めた師である。(おこがましい表現であるが…)
故に、未だ私は師を超える事ができない。
その実力は日本人としては飛びぬけていると認識している。
しかし、である。

友人の誘いにのってフィリピン・パブへ行った。
そこでの会話の中で、彼女達は日本の(低級)知識人(副島隆彦以外の知識人達)の上をいっていることが判明した。
私がHigh PoliticsとLow Politicsという用語を知ったのは、副島隆彦の著作を読んでからである。
彼女達には、High Politicsという用語が通じたのである。

日本人の知識として決定的に欠けているのは、
1. High Politics(軍事)知識
2. Religious(宗教)知識
である。
1番目については、日本のリベラルズが戦後ずっとタブー化して、人々を思考停止させてきた経緯がある。
2番目については、本来日本人は宗教に無頓着であるから、知らないのである。
(これにつては、故山本七平氏の「勤勉の哲学」を参照されたい。)

もうひとつ学んだことは、フィリピン現地には独自の宗教が存在するらしい。という事である。
一つ目は、IGRESIA
二つ目は、Born Again
である。
詳しくは聞く事ができなかった。
しかし、一つ言えることは、ともに唯一絶対神が存在するという事である。
もう一つ解かったことは、フィリピンにおいてはかなり自由に宗教選択が許されているという事である。
父親、または母親と異なる宗教を子供は選択してもいいらしい。
但し、Born Againに関しては強く反対されるらしい。
今回の旅での収穫である。
日本知識人層は、自分達がフィリピン女性の上位に位置していると勝手に思い込んでいるが、実は彼女達の方が上位に位置していたりするのである。
もういいかげん、日本知識人層のマスターベーションにつきあうのはやめた方がいい。

以上
A. ARAKI

2000/08/14(Mon) No.01

老後の海外移住(最悪のシナリオ) 投稿者:荒木章文
−退職後住みたい国・地域−

荒木章文

本日8月12日(土)の日経プラス1の中に「50代が老後に住みたい国・地域」という記事があった。
その順位は以下の通りである。

1. オーストラリア
2. 米ハワイ
3. ニュージーランド
4. カナダ
5. スイス
6. スペイン
7. 米本土
8. シンガポール
9. 英国
10. スウェーデン

これらの国家を選んだ理由については、「気候や環境のよさ」、「治安のよさ」、「物価が安い」、「税金が安い」、「預金金利が安い」などというものであった。

しかしここで良く考えてみなければならないことがある。
つまり海外への移住に際しての最悪のシナリオである。
その論点としては2点存在すると、私は考える。
1. High Politics(軍事的側面)
2. Low Politics(経済的側面)
である。

上記の地域を選んだ理由の大前提が、このまま「日本国とその国家との関係が永続する。」というものである。
このアンケート自体が、それを前提としなければ解答できないという性質のものであることは理解できる。
しかし、実際移住してみた後では、遅すぎるのではないか?
ということでいくつかシュミレーションしてみることにした。

まず、High Politics(軍事的側面)を考えた時、ペルーのフジモリ大統領の事件を思い起こすことは簡単である。
つまり、日本政府は海外に在住の邦人の保護に関しては、何もできない。
そう言うことである。
この事件で、そういう事実が判明した。
誤解を恐れずに言わせていただければ、
歴史の教科書を思いだしてもいい。
支那での租界地域での邦人の保護、是に関しては大日本帝国は軍隊を派遣してでも保護をした。それしか邦人の保護の手段はなかった。
しかし、それは現在ではできない問題である。
海外在住の邦人の、生命に関しては皆殺しにされても日本政府にはそれを救出する手段も意志もない。

もう一つの問題はLow Politics(経済的側面)の問題である。
これについては、当該国家(移住先の国家)において“邦人資産の凍結”を宣言されたら一夜にしてその人々は無一文に化すのである。
どんなに、物価が安かろうが、預金金利が高かろうが、税金が安かろうがそんなものは、最悪のシナリオの前では何の足しにもならないのである。
たとえ、市民権を得ていたとしても、大東亜戦争時のアメリカの日系人に対する対応を考えただけでも簡単に想像ができるだろう。
それだけの最悪のシナリオを想定した上でなければ、それこそ「後悔、先にたたづ」である。

また、「日本人のアイデンティティ」という問題も別の問題といして存在する。
日本部族の宗教は、偶像崇拝である。(ex.観音信仰、地蔵信仰)
啓典宗教は、徹底的に偶像崇拝を排除した、唯一絶対神の信仰である。
そしてユダヤ教に関しては、聖書:Documentによって伝えられ偶像崇拝化しなかった。
故にその唯一絶対神という抽象的な存在(彼らにしてみれば、そこに臨在する)のみが、正に存在するのである。
現在に至るも、ユダヤ人のアイデンティティは抽象的概念であるが、故に保たれている。
しかし、日本人のアイデンティは日系2世、3世となるにつれて消えて行く。
容姿は日本人(東アジア人)的であっても、現地人なのである。
(このような主旨のことを、故山本七平氏は言っていた。)
それは種としての、日本ザリガニが絶滅に向かいやがてアメリカザリガニだけになっていくことを想像するといいのかもしれない。

いずれにしても、副島隆彦の世界政治・経済分析を読んで、すこしは世界基準で思考してみなければ、行動を起こしてからでは「大きな損をする可能性が大きいですよ」ということである。

以上
A.ARAKI

2000/08/12(Sat) No.01

日本の新エネルギー国家戦略商品について〜日本における新・国家戦略商品についての一考察〜 投稿者:荒木章文
本日2000年8月6日(日)のテレビ朝日の、サンデープロジェクトの特集において「GAIAX」なる石油代替燃料の特集がくまれていた。

この特徴は、簡単に言うとアルコール系の石油代替燃料である。
つまり、アルコール系ということで低公害である。
ガソリン税がかからないので、低価格である。
しかも、ハイオク並みのPowerを引き出すという調査結果も存在するという。
従って、ユーザー層にも、販売店にとってもメリットが存在する。
価格ベースで換算すると
ガソリン:約101円/l
GAIAX:約88円/l
価格が安くて、販売店側にとってもメリットが存在する。
URL:http://www.cre-en.co.jp/gaia/news.htm

このサンデープロジェクトの視点では、国内の石油元売り業界の既得権益者が課税という手段を通してこの新規参入を阻止する形で圧力をかけているというレポートでした。
その官僚主導国家・日本における今回の課税省庁は、大蔵省ではなくて自治省である。
つまり、地方税として課税するというものでした。
ここまでは、日本国内の問題として考えられているのですが、
この特定のガイアエナジー社が開発した石油代替燃料は、実は党人派政治家・田中角栄が実現できなかった、日本のエネルギー政策上非常に重要な商品である。
と考えています。
田中角栄が、日本独自のエネルギー政策を実行したことによって、アメリカの石油メジャーから“王殺し”にあった訳です。
しかし、この戦略商品の可能性は実はそのアメリカのグローバリストの足元を経済的に揺るがしかねない非常に重要な意味が存在すると考えます。
まず考え方としては2点あります。
@ アメリカにおけるリベラリズム思想の問題
A 知的所有権の問題

日本のエネルギー政策上、この2点をクリアすれば1980年代を再現できるのでは?
という軽い期待さえします。

まず、@のリベラリズム思想の問題ですが、ここでは環境問題が論点になると言えます。
現存のガソリンよりクリーンな燃料なのですから、当然石油製品に対して優位性がある。
この時、アメリカのリベラル思想メディアはどう捕らえるのか?
グローバリスト(大義名分としての“環境”という用語を振り回している団体)は、経済的に支援されている資金源に対抗する言論を発言できるのか?
次に、Aの知的所有権についてです。
これはベンチャー企業である、ガイアエナジー社が上手くアメリカでこの知的所有権(抽象的な法概念)を獲得できるか?
それが問題である。
つまりデフレ時代に入って、コンピューターの例で言えば
アメリカ:マイクロソフト(ソフト)
日本:各メーカー(ハード)
の関係で、日本は利益率が低く、労働工数がかかる分野をひいてきた。
それを戦略次第によっては
日本:ガイアエナジー社
アメリカ:各石油小売り
という利益率の高い、しかもグローバリストを経済的に対抗する商品になると考えられる。
もしかすると、以前存在した食料安保論に対して批判された石油(エネルギー)ルートを封鎖されたら日本経済は地におちるといわれていた意見に対するカウンターになりえる。
何故なら、石油メジャーが押さえる中東の石油産油国に依存しなくてすむのだから。

また、アメリカ国内における反・グローバリストにとっても、この戦略商品は重要な意味を持つ可能性がある。
何故なら、アメリカの石油メジャーが、海外の利権を守る為に行使する軍の活動の意味をなくす、根本的な代替批判ができるからである。

以上の記述においては、「自動車」という視点からの展開でした。
では、本来的にエネルギー政策を考えた時ライフラインについてはどうなのでしょうか?
電気、ガスこれについてもシュミレーションしてみる価値があります。

冷・暖房及び電気について考えた時現在、コジェネレーションという考え方が存在します。
但しそれを導入するにあたっては現在のところ、残念ながら法人にしかコストメリットは享受できないでしょう。
しかし、パソコンの普及の事例を考えた時、法人(Business)から消費者(Consumer)への意向の過程で需要者の市場の形成とともに製品価格も安くなっているように同様な動きが予測される。
つまり現在は、法人のビルディングにおいてしかコスト的に見合わないが、将来的にはこの代替燃料で稼動する、コジェネレーションシステムも生れてくる可能性もある。
そうしたら、火力発電や原子力発電という現在のエネルギー政策自体も変更される可能性が存在する。
電気の小売りも、認可されたらそれもまた市場原理のもとで、この代替エネルギー普及の促進剤になる可能性も存在する。


つまり、この「GAIAX」というクリーンなエネルギーの活用と、「コジェネレーションの一般化」という考え方を通して、将来の日本のエネルギー政策は考えられるべきである。私は主張します。

またこのエネルギー政策については、ヨーロッパ及びアメリカを睨んだ形の戦略を具体的に立てていくべきであると考えます。
ヨーロッパにおけるリベラルの思想、特に環境問題に関する消費者の意識に対して強くアピールしていくべきである。
また、アメリカにおいても反・グローバリストに対してアピールしていくべきである。
(このアルコール系石油代替燃料を、リバータリアン層の強い地域で製造してもいい。)
それによって日本の国益は増すと考えます。

アメリカ軍が沖縄に存在する。
それによって経済的に依存している沖縄県人は、簡単にアメリカ人は出て行けとは言えない。
アメリカにおいて、日本の製造業の工場が存在する。
それによって、生計をたてている(経済的に依存している)現地従業員は、簡単に出て行けとは言えない。

この構造を、ヨーロッパ、アメリカに真の友人として、その内部に存在してもらう。
それが日本の国益にかなう戦略ある。と私は考えます。

本日は、サンデープロジェクトからこのような石油代替商品について、日本のエネルギー政策の観点から考えました。
ご意見等ありましたら頂けたらありがたいです。
以上

2000/08/06(Sun) No.01

衆院選挙区制度について 投稿者:古市
まもなく総選挙となりますが、私が以前から気にかけていたことに、衆院の選挙区制度のことがあります。

:代議士は言うまでもなく国民全体の代表でありますが、選挙区が設定されている場合はその選挙区の代表でもある、という性格があります。

:よく「官僚主導から政治家主導へ」といわれますが、官僚と政治家とどちらのほうが権力があるかといえば、じつは確実に、まちがいなく政治家のほうにあります。

なぜなら、旧国鉄時代、国鉄は大赤字だというのに各選挙区選出の代議士たちの「路線を建設してくれ」という要求を断りきれず、採算はまず採れないというのにじっさいに建設してしまい けっきょく国鉄は自滅したことからも明らかです。

では、なぜわが政府は政治家主導ではなく官僚主導なのでしょうか? それは、政治家に国家運営の情報が少なく官僚に多いということと、政治家に政策立案能力・立法能力が少なく官僚に多い、ということが原因であるということが考えられます。

:では、この原因のそのまた原因はなんなのか? ここで所長の文章の一部を引用いたします。

>日本の政治家(国会議員)は、衆院議員500(今度、480)人と、参議院議員252人です。

>しかし、このうちで、格付けの必要なのは、おそらく、100人です。衆議院80人、参議院20人です。

>その根拠は、大半の議員は、70歳ぐらいのおじいさんです。その人たちは、個別の業界団体の利益代表か、良くて、地元代表です。

>この人たちには、国政を語り考える能力も意志も始めから無い人たちです。 それが、現実の政治です。

とくに、

>大半の議員は、70歳ぐらいのおじいさんです。 その人たちは、個別の業界団体の利益代表か、良くて、地元代表です。

>この人たちには、国政を語り考える能力も意志も始めから無い人たちです。 それが、現実の政治です。

ここです。 つまり、その選挙区の代表でしかない連中が国会議事堂の議席の過半数を占めている、という恐るべき状態だということが示されています。

彼らは官僚と違って厳しい選挙を何度も勝ち抜いてきた海千山千の猛者ではあります。 しかし、海千山千とはいってもその選挙区への利益誘導とかその選挙区内での争いの調停とかに才能を発揮しているに過ぎず、国家運営に才能を発揮する代議士は一部です。

つまり、そういう代議士はその選挙区の職域共同体&地域共同体の太守でしかなく、そういう代議士が過半数を占める永田町は あたかも大小諸侯の合議によって運営されているに過ぎないが如し、なのです。

:わが日本の場合、選挙区への利益誘導が第一となるという悪しき風土が、特に農村部にあります。

かつての中選挙区制から今の小選挙区制となり、各党の代表が一人となることで政策論争が期待されると言われたものですが、政策論争なんて都市部じゃともかく、農村部には、まず、ない。「天に二つの太陽はいらない」とばかりに代議士はその選挙区の領主として君臨するようになってしまいました。

視点を変えてみれば、これは下部規範として起こっています。 つまり、利益誘導を排して天下国家を語る候補には有権者が投票してくれない。 もしその候補が当選したとすると、他の選挙区には利益誘導がなされてその選挙区には何も利益がこないということになりかねないからです。

この「選挙区への利益誘導が第一となる」という悪しき風土は、大選挙区制(一都道府県を一選挙区とする)であろうと無くならないでしょう。

結:おそらく抜本的な選挙区制度の改革が必要でしょう。たしかにこんな青二才が戯れ言を吐いている、というのはお笑いかもしれませんが、しかしそうしないと永田町は正常化しません。永田町が政策立案能力・立法能力のある代議士で占められる正常な状態にならないと、わが国は衰退していくことでしょう。

この元凶が下部規範と現選挙区制度との織りなしによって生じていることから鑑みて、「一地域への利益誘導」ということが生じる恐れのあるいっさいの選挙区制度を一時的に排する必要があると考えます。

わたし自身はほんとうは小選挙区制がベストだと思うのですが、悪しき下部規範を矯正すべく時限的に全国区比例代表制を導入するべきであると考えます。

「人でなく党で選ぶなんて」というのはわたし自身が悩んでしまうことがらですけど、利益誘導癖というものを全国から払拭するためにも多少の荒療治が必要であります。 悪しき癖を全国から抜けきらせて初めて再び小選挙区制に戻すべきた、と考えます。

突飛だったやかも知れませんが、皆さまはこれについていかがお考えでしょうか? 意見を伺いたいと存じます。

追加:それにしてもなぜ自民党は比例制にああまで反対するのでしょう? みんな一緒に利益誘導から離れるなら全国の人々も納得するのになあ、と素朴に考えてしまいます。

また、とりあえずは小選挙区制のままであり、また自民党が与党のままでしょうから、若手の方々であってもコンサルトのさいに国家利益と選挙区利益との折り合いをいかに折半するか、も考える必要があるかと思います。 現制度下の汚い現実として、選挙区利益にも考えるための時間を大幅に割かないと、代議士は肝心の政治生命じたいを失ってしまうからです。

2000/08/04(Fri) No.01

My Diary Version 1.21改
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