■ここは、主に副島隆彦の弟子から成る「ぼやき漫才・研究会」のメンバーが小論を掲示し、それに師や他のメンバーが講評を加えていくところです。

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(2001/02)

CFRと世界は如何に動いたか 荒木
 第3次近衛内閣が組織された直後、すでに決定されていた南部仏印進駐が実行に移され、それに対してアメリカは対日石油禁輸の措置をとり、両国の関係は険悪の度を加えた。アメリカは日本に経済制裁を加えることで、その対外進出を抑止しようとした。しかし、それはかえって軍部に危機感をつのらせ、戦争に訴える以外には、いわゆるABCD包囲陣による圧迫をはねかえせないという主張を強力なものとした。

ABCD包囲陣とは・・・
A=アメリカ(America)、B=イギリス(Britain)、C=中国(China)、D=オランダ(Dutch)の4カ国の対日経済封鎖を中心とする反日戦線。
新詳説日本史 井上光貞他著 山川出版社 P.329 1991年3月

 これは高校の日本史の教科書の記述である。
 この記述では、日本が南部仏印に進駐したからアメリカがその制裁措置として石油禁輸措置をとったという事になっている。
 太平洋戦争の終戦から、時間が経過したことによってヒステリーとしての反戦思想から抜け出して冷静にその当時を分析できるようになった。
 つまり、それはテレビゲームとしての湾岸戦争があり、経済封鎖とは如何に行われるのかということを観客として日本人は見ていたという事実である。
 太平洋戦争当時にCNNというメディアは無かった。
 しかし、大きく外側からみれば日本に対して行われた経済封鎖も湾岸戦争の時のように想像できるのである。
 日本経済にとって、石油とは致命的に重要なのである。
 地政学者ハウスホファーでさえこの認識は甘かったようである。

(引用はじめ)
しかし、海洋国家の大動脈を維持するための石油の致命的な重要性と、そのほとんど大部分を米国系およびヨーロッパ系の石油企業から輸入しなければならない日本経済の構造的弱点に関しては、彼の認識はいささか甘かったようである。日本にとって太平洋戦争とは、要するに当時の貧弱な大陸資源開発能力と、国際石油資本の一致した勢力とのあいだの戦いだった。ただ、そのスローガンとしてアウタルキーという言葉が戦争の前夜に一時かなり流行したことについては、ドイツ地政学との共鳴現象がなかったともいえないだろう。
地政学入門 曽村保信著 中公新書 P.118 1984年3月
(引用おわり)

 しかしここで疑問が残る。
 それは、海洋国家である日本にとって石油が致命的に重要なことは理解できる。
 「貧弱な大陸資源開発能力」とは、何なのだろうか?
 満州国における資源開発のことなのだろうか?
 また、「国際石油資本の一致した勢力」との間の戦いとは何なのか?
 ロックフェラーと満州国での利権争いなのか?
 それともヨーロッパ系(ロスチャイルド)とアメリカ系(ロックフェラー)の争いなのか?
 はっきりとしない。

 1930年代の「ABCD包囲網」についても、1947年の「逆コース」についても、「ソビエト封じ込め」も全てCFRが政策決定に重要な役割を果たしていた。
 さらに1951年の日本とアメリカとの平和条約についても影響力を行使していたという。
 そのことを考えた時、CFR発行の「フォーリン・アフェアーズ」を分析することの意味が如何に重要であるかが理解できる。

(引用はじめ)
「外交問題評議会」(Council on Foreign Relations=CFR)がそれである。この米国の外交政策専門家グループは、1921年の創設以来、米国の政策決定における最有力勢力として君臨してきた。第一次世界大戦後に米国が策定した主要な外交政策はほとんどすべて、評議会のメンバーが関与していた。したがって、戦後日本の「逆コース」を工作したアメリカの金権家たちが、1930年代末期に対日石油禁輸措置(ABCD包囲網)をかくも巧妙に計画したところの、同じパワーエリートの君主たちであったとしても意外なことではない。(日本人の多くは、それが故に日本は1941年12月7日、パールハーバーへの攻撃を余儀なくされたのだと考えている)。彼らはまた、広島と長崎への原爆投下を承認し、それと並行して太平洋戦争終結の和平目標と条件を練り上げた政策立案者でもあった。これらの「君主」たちは兼務する別の職務権限により、1951年に調印された日本初の米国との平和条約の立案にあたっても影響力を行使できる立場にあった。
 彼らはいったい何者なのか。彼らに共通していたことはなにか。答えとして一つあげられるのは、彼らが巨大多国籍企業、とりわけロックフェラー一族のスタンダード石油系列企業となんらかの関わりがあること、そして、その多くは「外交問題評議会」(CFR)の後援者だったという点である。ロックフェラーの支配下にあったこのシンクタンクは、第二次世界大戦以前から、また戦後はとくに、多数の外交政策専門家を閣僚に送り込んできた。「新世界秩序」本格的に話題に上るときは、国際的編成に向けての具体案はかならず「外交問題評議会」から生まれるのである。
軍隊なき占領 G・デイビス/J・ロバーツ著 新潮社 P.134-135 1996年12月
(引用おわり)

 ロックフェラー支配化にある、このCFRが世界を動かしてきたのである。
 私は、陰謀論を展開してユダヤ資本が世界を支配している。
 なんてことを言っているのではない。
 ただ、事実を積み上げると歴史の輪郭がこのように浮き上がってきただけのことである。
 だから、大きく世界戦略という視点から見ると、日本がどのようにコントロールされて来たのかが認識されるのである。
 たとえその当時、アメリカの戦略を理解できる人間がいたとしても、日本国家の意思決定を行える人間に伝え、またその意志決定者が実行できたか?
 と言えば疑問である。
 それは、日本に本当に最終的意志決定者なんて、存在したのか?
 ということからはじまるからである。
 また小室直樹博士が分析してきた、日本社会における機能集団が運命共同体になるとう組織原理をコントロールする方法は存在するのか?
 それも疑問である。

 最後に、「逆コース理論」とは何か?
 について以下に引用を付けておく。
 また、ソビエト封じ込めについてジョージケナンの論文がフォーリン・アフェアーズに掲載されたという記述も付けておきます。
 戦後日本において「逆コース」が如何にサボタージュされ変な国家になっていったか?の分析については片岡鉄哉教授の日本永久占領を参照されたい。

「逆コース理論」
(引用はじめ)
中略・・・イアン・ブルマ氏の日本戦後史研究は、古くから欧米では「逆コース理論」(Reverse Course Theory)と呼ばれるものだ。この逆コース理論は、占領3年目の47年3月には既に、アメリカ政府は「日本をさっさと独立させよ。講和条約を結んで、日本人に自力で経済復興させよ」という方針大転換をしていたとする。これが「逆コース理論」である。この同じ月に「トルーマン・ドクトリン」が発表され、自由主義陣営のソビエト・ロシアに対する警戒態勢が敷かれはじめた。
「日本の秘密」 副島隆彦著 弓立社P.12 1999年5月
(引用おわり)

「X論文-ソビエト封じ込め」
(引用はじめ)
バーンズの後任にジョージ・マーシャルが国務長官になると、マーシャルはジョージ・ケナンという若い、ソ連専門の外交官を、国務省の政策企画部の初代の部長に任命した。ケナンは新しい政策の基調になる概念をたたき出し、講演したり、ペーパーに書いたりして、売り込みに一生懸命だった。そして、1947年6月号の『フォーリン・アフェアズ』誌に、Xという匿名でそれを発表している。これが封じ込めである。そのあとにマーシャル・プランが続いた。その年の夏にはケナンは、アジアと日本に目を向けていた。
日本永久占領 片岡鉄哉著 講談社α文庫 P.106-107 1999年6月
(引用おわり)

2001/02/12(Mon) No.01

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